鳥取の近代化遺産群

鳥取市は、江戸時代には全国約300藩あるなかで、上位12番目の石高(財政規模)を誇った藩都でしたが、その後に控える近代期には、苦難の連続が待ち構えていました。

明治維新直後、鳥取県(旧鳥取藩)は、政治的都合から一時島根県に併合されたため、かつて藩都として栄えた鳥取城下は、急激に衰退していきました。これに加え、鳥取市が位置する山陰地方は、地理的要因から鉄道や道路といった交通網の整備が他地域よりも遅れ、近代的な経済発展の速度も緩やかでした。さらに、鳥取市は多くの災害にも苦しみました。度重なる大水害に加え、1943年に発生した大地震(マグニチュード7.2)は、市街地に深刻な被害をもたらし、復興に多大な時間と労力を要しました。これらの自然災害は、住民の生活基盤を揺るがし、近代都市としての発展を一時的に停滞させました。また、1952年には、原因不明の火災により市街地の大部分が焼失し、住民は深刻な被害を受けました。このように、近代期における鳥取市は、政治的影響、経済的困難、度重なる災害といった苦難に直面し、近代都市としての発展においては、多くの試練を乗り越えなければなりませんでした。

戦国時代から江戸時代にかけて栄えた鳥取市。その後、一時的に衰退するも、徐々に近代化していく様子を、市内に保存される「仁風閣(じんぷうかく)」、「旧美歎水源地水道施設(きゅうみたにすいげんちすいどうしせつ)」等の貴重な文化財から見てとることができます。

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文化財の紹介

鳥取城跡附太閤ヶ平
(とっとりじょうあとつけたりたいこうがなる)

鳥取城跡は、戦国時代の山城が起源で、急峻な地形が特徴です。この城跡は、「日本にかくれなき名山」と称され、日本の歴史上有名な武将である織田信長(おだ のぶなが)も「名城」と讃えました。

歴史的には、織田信長の家臣である羽柴秀吉(はしば ひでよし)(のちの豊臣秀吉(とよとみ ひでよし))による兵糧攻めの舞台となり、江戸時代には池田輝政(いけだ てるまさ)の孫、光政(みつまさ)が32万石の平山城として拡張整備しました。日本の国宝に指定されている姫路城の職人たちが、鳥取城の築城に関与したことから「姫路城の弟城」とも呼ばれています。藩主御殿のある二ノ丸には、山陰地方初の層塔型三階櫓(そうとうがたさんがいやぐら)が建てられ、長く藩の象徴として人々に誇りを与えました。

光政の後、鳥取池田家は明治維新の立役者としても知られ、特に12代慶徳(よしのり)は高性能な反射炉を建造し、戊辰戦争では新政府軍として活躍しました。明治維新後の廃城令では、鳥取城は軍事的必要性から多くの建物が残りましたが、治安が安定すると陸軍の撤退に伴い、象徴的な櫓群は解体されました。現在、往時の姿を取り戻すため、城郭建造物の復元工事が行われています。

「太閤ヶ平」は、戦国時代に羽柴秀吉が鳥取城の兵糧攻めに際して築造した超大型の本陣跡で、3重の空堀を連結した大防衛ラインは圧巻です。

国の史跡に指定されている鳥取城跡は、日本における中世から近世、近代に至るまでの、城郭が変遷していく姿を現代に伝えており、日本百名城にも選定されています。

城のシンボルだった二の丸三階櫓跡

城のシンボルだった二の丸三階櫓跡

他の城跡では見ることができない天球丸の巻石垣

他の城跡では見ることができない天球丸の巻石垣

中央の石垣は菱櫓跡

中央の石垣は菱櫓跡

仁風閣(じんぷうかく)

仁風閣は、鳥取市の近代化を象徴する建物であり、地域発展に重要な役割を果たしました。1907年、旧鳥取藩主である池田仲博(いけだ なかひろ)侯爵によって、皇太子殿下(のちの大正天皇)の行啓を迎えるために、殿下の宿舎として建設された、山陰地方に唯一存在する本格的な洋風建築です。

仁風閣の建築様式は、明治時代における西洋建築技術の進展を反映しており、設計には、日本の国宝に指定されている旧東宮御所迎賓館赤坂離宮(きゅうとうぐうごしょげいひんかんあかさかりきゅう)を手掛けた片山東熊(かたやまとうくま)工学博士が携わりました。

仁風閣の建設に伴い、電気や電話が市街地に供給され、鳥取県内に鉄道が敷設されるなど、交通網の整備が飛躍的に促進され、都市の近代化がはかられました。このように、地方都市に大規模かつ本格的な洋風建築が建設されたことは非常に重要で、地方都市の近代化や技術発展の象徴といえます。

このことから、仁風閣は鳥取市における近代化の象徴的建築物であり、明治維新以降、長く衰退期にあった鳥取市の発展に大きく寄与しました。

外観の特徴のひとつで側面にある八角階段室

外観の特徴のひとつで側面にある八角階段室

建物の正面にはセグメンタルぺディメント(櫛形破風)の棟飾りがある

建物の正面にはセグメンタルぺディメント(櫛形破風)の棟飾りがある

支柱を持たない木製の螺旋階段

支柱を持たない木製の螺旋階段

旧美歎水源地水道施設
(きゅうみたにすいげんちすいどうしせつ)

旧美歎水源地水道施設は、鳥取市の近代化のシンボルとして重要な役割を果たしています。1913年に建設が始まり、日本人技師として初めて上下水道を設計した理学博士である三田善太郎(みた ぜんたろう)が手掛けたこの施設は、山陰地方で初めての近代水道として1915年に完成しました。

しかし、完成から3年後に台風による豪雨で土堰堤(アースダム)が決壊し、集落が押し流される悲劇が発生。これを教訓に、日本初のコンクリートダムの建造を成功させた工学博士である佐野藤次郎(さの とうじろう)が復旧を担当し、現代に保存される強固なコンクリートダムである美歎ダムを建設しました。以降、旧美歎水源地水道施設でつくられた水道水は飲料水として用いられたほか、蒸気機関車に給水したり、工場へ供給するなど、半世紀以上にわたり地域の発展に寄与し、1992年まで活躍を続けました。その後、施設として廃止されますが、今もなお大正時代の水道システムが残っていることから、2007年に国の重要文化財に指定され、地域の歴史を感じられる場所として親しまれています。

市街地にほど近い山間に所在することから、四季折々の風景も楽しむことができ、桜や夏のホタル、紅葉や冬の雪景色などが訪れる人々を魅了しています。水道施設としての役目を終えた今もなお、先人たちの情熱と鼓動が息づくこの施設は、地域にとってかけがえのない存在です。

ドーム型の屋根をもつ接合井

ドーム型の屋根をもつ接合井

貯水池より導かれた水は、5つある濾過池に貯められる

貯水池より導かれた水は、5つある濾過池に貯められる

量水器室には当時使われていたメーターが残っている

量水器室には当時使われていたメーターが残っている

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文化庁

令和6年度 文化資源活用事業費補助金(文化財多言語解説整備事業)