多度津町の輸送近代化遺産

多度津(たどつ)は、天保9年(1838年)巨額を投じた多度津湛甫(たどつたんぽ)の大工事によって多度津港の基盤を築き、以来、幕末から多度津金毘羅参りの船着き場、北前船の寄港地として繁栄してきました。明治22年、讃岐鉄道が多度津を拠点として敷設され、海運交通の要衝へと発展。さらに四国初の測候所、一等郵便局、電灯会社等の設立により多度津は四国における近代文化の発祥地として栄えてきました。

北前船の寄港地となった多度津港の「多度津湛甫」、廻船問屋として栄えた合田家(ごうだけ)の「旧合田家住宅(きゅうごうだけじゅうたく)」、合田家を含む「多度津七福神(たどつしちふくじん)」が出資し近代化された鉄道施設の「JR多度津駅構内転車台」は、江戸時代より北前船の寄港地、多度津金毘羅街道の玄関口としてにぎわい、讃岐鉄道の設立など常に四国の近代化をリードしてきた多度津の歴史を感じさせてくれる貴重な文化財です。

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フォトグラメトリ

文化財の紹介

多度津湛甫
(たどつたんぽ)

北前船を停泊させるために整備された港湾施設。天保9年時(1838 年)に河口部を利用していた古港を改修した際に造られたもので、手狭になった港の整備と河川および潮流による砂洲上に構築され、港湾地区が・潮流や波浪等によって浸食される事を防ぐために造られたものだと考えられています。その際に水深も深くとられたことから、初期の多度津港は大型船舶は伝馬船(てんません)などを利用した間接的な港とのやり取りしかできませんでしたが、大型の弁才船(千石船)などが入港できるようになったことから、多くの北前船やその他廻船が往来するようになりました。江戸時代幕末期(慶應期)に造られた護岸が最近まで確認できていましたが、近年の護岸工事によって見えなくなっています。現在は明治時代末以降(1912~)に改修されたもの一部見ることができます。

先端は丸くなっている

先端は丸くなっている

船を係留するための柱が残る

船を係留するための柱が残る

広い範囲で石積みの護岸が残る

広い範囲で石積みの護岸が残る

旧合田家住宅

「旧合田家住宅(島屋(しまや))」は、豪商・事業家・政治家などとして近世から近代にかけて活躍した合田家が、当主三代にわたって順次建築整備して完成した大邸宅です。合田家は、弘化2年(1845年)に三豊郡豊浜(みとよぐんとよはま)から移住。

北前船の寄港地として、船主と、北前船を利用して各地の物産を売り買いする商人が現れました。それらの商人を廻船問屋といい、多度津でとくに有名な廻船問屋で財を成した商人を「多度津七福神」と呼び、合田家もその内の一家でした。彼らは明治時代になると、近代化のために多くの資金を出資しました。多度津から各地へ輸出したのが讃岐三白(さぬきさんぱく)と呼ばれる砂糖・綿・塩です。讃岐の名産だけではなく、四国山地を越えた高知の商品を取り寄せて多度津から輸出しているものもありました。また輸入していたものは米や北海道産の昆布、サンマ、味噌醤油、干鰯(肥料)などがあります。

格天井にぶら下がる洋風のシャンデリア

格天井にぶら下がる洋風のシャンデリア

陶器で作られた手洗い場

陶器で作られた手洗い場

敷地には煉瓦造の蔵も現存する

敷地には煉瓦造の蔵も現存する

JR多度津駅構内転車台

多度津は四国の鉄道発祥の地として知られ、町内に鉄道に関連する多くの近代化遺産が点在しています。登録文化財は、JR多度津駅に3点、JR多度津工場内に7点の合計10点が存在しました(現在は多度津駅に2点、多度津工場に6点)。特に、JR多度津駅構内には転車台1基と給水塔2基がありました。転車台は、動力車の方向転換を行うための設備で、昭和25年に建造されたリベット留めの上路式バランスト型鋼桁を備えたものです。給水塔一は、大正期に建造されたもので、レンガ造りの躯体に鉄筋コンクリート製の貯水槽を持ち、香川県内で唯一の戦前の給水塔です。給水塔二は、古いレールを使用した鉄骨構造で、昭和26年に建設されたものでした。これらの施設は、蒸気機関車に欠かせないものであり、多度津駅が四国の主要な幹線の分岐点であったことを示す重要な遺構です。

基礎部分は石積になっている

基礎部分は石積になっている

桁端には車輪が確認できる

桁端には車輪が確認できる

操作室は比較的新しいものに変更されている

操作室は比較的新しいものに変更されている

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文化庁

令和6年度 文化資源活用事業費補助金(文化財多言語解説整備事業)