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古には平清盛が整備した「福原京」「兵庫津」があり、近代以降も兵庫県の中心地・貿易港として栄えた神戸市兵庫区。
街の中に目を向けると、河川トンネルや水道施設などの都市インフラ、兵庫商人が交流した施設など多くの近代化遺産が残されており、神戸の発展に貢献した場所であることが窺い知れる。
わが国初の河川トンネルとして1901年8月に竣工し、当時のトンネルとしては世界でも最大級の規模を有している。
湊川の付替えは、1896年の暴風雨による大水害を契機に、石井川・天王谷川合流点より南西に新河川を掘り、湊川隧道を通水させ苅藻川に合流させることで完成した。
トンネル内部の覆工は、煉瓦によるイギリス積みと長手積みであり竪積みと呼ばれる技法も用いられている。覆工背面には栗石が裏込材として密に施工されている。これは、未固結地山に対応した適切な技法であって、トンネルの安定性に大きく寄与しているものと考えられる。
また、河川トンネルという条件を考慮して、インバート部は基礎に煉瓦を用い。その上に花崗岩の切石を敷き詰めた構造となっており、洗掘と摩耗等への対策が十分になされている。
吐口側の坑門工は、明治期のトンネルらしく煉瓦造であるが、そのデザインは本格的なネオ・ルネッサンス風の完成度の高いものであった。
開国により近代港都として誕生した神戸は、六甲山系南麓の狭隘な扇状地群に立地しており水利に乏しかったが、近代水道の創設によりKobe Waterの名声を得て、国際港都としての発展をとげた。
創設水道の烏原水源地の堰堤として1905年5月竣工。水道専用ダムとしては、わが国で第4番目にあたる。
総高33.33メートル、堤長122.42メートル、有効貯水容量1,315,139立方メートル、曲線重力式ダムで表面張石粗石モルタル積で、堰堤中央上部に四連アーチの余水吐を設け、取水塔には古典的な装飾が施され、入り口には扁額「養而不窮」の文字がある。
設計は佐野藤次郎。同じ神戸市創設水道の布引水源池の五本松堰堤の漏水に苦しんだ佐野はインドへ堰堤調査に出かけ、その成果を立ヶ畑堰堤に注いだ。
一部基礎岩盤にグラウチング、モルタルの砂分にスキル(下等煉瓦を粉砕して0.15mmフルイを通過したもの)を添加してモルタルの水密性を高めるなど、漏水対策が採用されている。
また、日本で初めて集落立ち退きをして建設したダムであり、また、日本で初めて土砂バイパスの工夫をしたダムである。
かつての兵庫津の行政区分は岡方・南浜・北浜という三方に分かれており、その一つ岡方総会所の社交場・岡方倶楽部として兵庫商人により1927年に建設された。
設計は高松吉三郎、施工は原田久吉が担当した。
堅牢な鉄筋コンクリート3階建ての建築で、大正時代に流行したセセッション(分離派)と呼ばれる様式の一例に属し、タイルと石を張りめぐらした外観に見られるような直線性、平面性を強調した単純な構成と幾何学的な装飾を特色とします。正面玄関のアーチ装飾や軒周りの波を抽象化した装飾、館内では三階のホール扉の楕円形装飾や、ホール壁面から天井に連続する巧みでありながら簡潔な漆喰装飾が見所となっている。